舞城王太郎「矢を止める五羽の梔鳥」(『新潮』6月号)

さぁ、来た!
このタイトルは一応、話のポイントであるので説明は省く。
まぁわかったところで特に問題ないけどさ。竜安寺にあるそうな。
舞台はおなじみ西暁町。
初期のノベルズ作品のような、【見立て】とか、【謎解きのためだけの謎】が久しぶりに頻出し
ほぼ完全に無意味な妄想・連想から導かれたイメージが文章化され、連鎖していく。

 山火事は山の火傷、山はでかい腹。山田。山田羅針盤の火傷は腹にもあった。山田羅針盤は僕を吸って土俵に連れて行った。土俵。土。僕はもりもり土の中に入ったが、つまりまた山田の腹の中に入って、土俵に上がったんだろう。
 どすこーい。
 負け豚知らずの吉田君。僕は吉田君じゃない。負け豚知らずはなんとなく悪口っぽく聞こえない。

…と、まぁ近作の中でも群を抜く破壊文っぷりなわけで。
おそらく丁寧に読み込んでも何も出てこないのではないか。
これはまぁ、今回の『新潮』が100周年記念号ということで、
二度とできないくらいムチャクチャ豪華な現代作家のラインナップを揃えて、
書き下ろし短編を載せているから、その中で、敢えてクソ中のクソ作品で度肝を抜く、という効果はあるかもしれない。
あとは、ちかごろ天才だと評価されすぎてるので、批評家に対する試金石としてさ、
時代の空気を読んだつもりで、こっから舞城を誉め始めたりするようなヤツを炙り出すため、とか。
どうかなー。そういうことすら考えてないだろうね。


奈津川サーガの登場人物と同名の人物が出てきていたので、いろいろ憶測を呼ぶんだろうけど、これは関係ないよな。
いやいや、別にあることにもできるし、ないことにしたっていいわけで、
もう今となってはすべてが、
「俺はどんな言葉からも小説を書ける」(『いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって。』(『群像』2003年12月号))
という宣言の後なのでね。あらかじめ無効化されていると言える。


ごく簡単に近作を振り返ると、『私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。』(同)で「作中人物と、作者によるコントロールの範囲」を(『九十九十九』と類似のメタ形式によって)問い、その発展形である『好き好き大好き超愛してる』(『群像』2004年1月号)では、「小説と現実との関係」を厳しく追及(死んだ柿緒の弟に、自分達がモデルにされたことを糾弾され、作家である主人公が自問するこのくだりは、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」並みにスリリングだと思う)した上で、「なぜ小説を書くか」「小説には何を書くのか」ということを確認してきたわけで、
これらの、≪小説の形式で書かれた小説論≫とでも言うべき、非常に重要かつ美しい作品を発表したのち、満を持して、こういうクソ小説を発表するところが舞城らしいというか何というか。


しかし、見落としてはいけないフレーズが、最後に宣言される。
「言葉は神で、僕はその道具。全てがそうなのだ。」という必殺の一行は、
「言葉は神で、神は遍在する。」(『いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって』)の繰り返しだ。
このフレーズは、野崎×ウサギちゃんのように、単にファン(とか2ちゃんねらーとかよ)を喜ばせるためのサービスで
再び書かれたわけではない。
言葉の神に従うこと。
4つの漢字と、朝たまたま見たようなバカバカしい夢を使って、できるだけ省エネに短編を捻り出すこと。
お腹を切って開けたら中にモノ(本や死体)が入っている、という、今のところ舞城作品に最も共通した、おそらく最大の(個人的な?)モチーフのバリエーションを恐れずに何度でも書くこと。
要するに、俺はこんくらいのクソを書いても、俺の書いたものであるかぎり、俺の一部を含んだ小説だ、と。
真似でもかぶっててもパクリでも何でもいいから書けよ、という愛媛川十三の言葉を、このくらいリアルに文章レベルを落として実作してみせりゃわかるだろがよ、ということでいいかな。
そういう読み方くらいしかできないじゃん、コレ。


すげーな、クソをかっこよく誉めたぜ。オレ。